全てがどうでもいい
私は現在大学生をやっているのだが、大学生活を送っていて頻繁に思うことがひとつある。
それは「全てがどうでもいい」という感情だ。
今の生活においての不満はほとんどない。
自分はもしかしたら幸せのハードルが他の人よりも低いのか、恵まれすぎていて気付いていないのかもしれない。
寝るところがあり、毎日食べるものがあり、インターネットを毎日使える。
そのような生活環境で私は非常に満足している。
そしてその環境というのは日本にいる限り(今のところは)ほとんど誰しもが享受できるだろう。
先ほど述べた生活というのは最悪フリーターや生活保護を受給していても実現できる。
そのような状態であるがゆえに就活などもどうでも良いと思ってしまう。
大学の授業も死ぬほど退屈だし、最悪留年しても良いと思っている。
人生において夢ややりたいことがないわけではないのだがそれは多大な努力しなければ達成できないものではないのでそのことに対して頑張る気力も特に沸かない。
つまり向上心を完全に失ってしまっているのだ。
自分の人生を例えると味のしなくなったガムみたいなものだろうか。
こんなにも恵まれている日本社会で向上心を持つことが出来る人に対して私は不思議な気持ちになるし、尊敬の念も抱く。
ここまで読んでどのような印象を抱いただろうか。
このような考えで暗いなと思ったかもしれないがこの考えは一長一短あると考えている。
向上心が高い人間はエネルギッシュで魅力的である反面、高みを目指す過程で苦痛も多いのではないだろうか。
自分のような考え方だと高みを目指さないから、周り見てから無気力な暗い人間に映るかもしれないが、苦痛は人生において少なそうだ。
これは先ほどの話と関係ないのだが、最近は人に対する興味も以前よりも増して失ってきている。
これは非常に困ることで人と会話していても特に面白いと思えないからだ。(もちろん友達などは面白いと感じる人もいる)
ではなぜ大学に入学したり、授業に参加するのかという疑問を持つ人もいるかもしれない。
その理由は端的に言って暇だからである。
「全てがどうでも良い」といったが、どちらかと言えばいい企業に勤めたいしいい暮らしを送りたいという欲が自分にもある(あくまで「どちらかといえば」である)。
暇であるがゆえにどちらかと言えばという欲望のために時間を私は投資している(もし自分にものすごくやりたいことや好きなことがあれば絶対にそちらを優先するだろう)。
この感覚がうまく伝わるだろうか。
村上春樹風に言うならば
「それが僕のささやかな希望であった。でもどうしてもというほどのものではない。できたら、ということである。僕の希望というのは昔からだいたいその程度のものである。」
村上春樹「雨天炎天」新潮社、1991年、142ページ
ということだ。
もちろんこの考えは現段階のものであり、変わる可能性はある。