ここ最近私は何をしているのか
今回の記事では私がよく聞かれるここ最近私が何をしているのかについて述べたい。
私が大好きなアニメの一つであるコードギアスの名言として
「ただ生きているだけの命なんて緩やかな死と同じだ」
というものがある。
その基準で言えば私は緩やかな死を歩んでいるな強く実感する。
本題に入ろう。
最近の私はバイトに平均して週一回しか行ってなく、大学の授業もオンラインなので半分ニートのような生活を送っている。
まず、朝起きるとTwitterを確認する。
Twitterの確認は私にとってなくてはならないものだ。
その後、インスタグラムをチェックする。
インスタグラムを面白いと感じたことはほぼほぼないのだがなぜか見てしまう。
この感覚は皆さんにも分かるはずだ。
なんJでよく見るスレは「なんJ大学オンライン部」「なんJ人生終わってる部」「なんJ読書部」やコロナ関連をよく見る。
ニュー速では主にコロナ関連のスレを確認する。
5chを見ることによって人生にプラスになることはほぼないのだが時間だけは大量にあり余っているので暇つぶしがてら確認する。
こちらはインスタグラムを見るよりはまあまあ面白い。
その後YouTubeを見る。
YouTubeではお勧めに出てくる動画を適当に見る。
その後、ABEMAで将棋の中継があったらそれを見る。
将棋の対局はとても長いのでもちろん全てを見ているわけではなく序盤、中盤はたまにチェックして終盤の一分将棋になったらずっとみるといった感じだろうか。
その後、読書を行う。
本を常に積読しているので読む本に困ることはない。
この全てに飽きるまで基本的にループしているのだ。
Twitter→インスタグラム→5ch→YouTube→ABEMA→読書
大学の授業がないのか疑問に思う方もいるかもしれないが、大学の授業は一ミリも聞いておらずこれらのことを全て大学の授業中に行っているのは言うまでもない(もちろん冗談だ)。
オンライン授業最高!
その合間をぬってご飯を作ったりするような感じだろうか。
最近私は太るために一食に米一合を食べることを自分に課しており、それを食べるのにも時間がかかるので食事にも時間がかかっている。
その全てに飽きたらその後はまだ見ていないアニメやドラマ、映画があれば見る。
最近私は半沢直樹とリゼロと俺ガイルを毎週見ている。
その全てを終わっても時間は充分あるのでその後はランニングしたりしている。
私は大体2日に一回か3日に一回10キロメートル走っている。
その後は溜まっている大学の課題をやったり家事をしたりしている。
友達と遊ぶのは二週間に一回程度である。
そして一日12時間ぐらいは寝ている。
この人と関わることのない半分廃人のような生活を続けることによって私のコミュニケーションどんどん退化していると感じており、無事に社会に出ることが出来るのか不安になってくる。
どうだっただろうか。
この私の生活をみてどのような感想をあなたは抱いただろうか。
私が高校生だったらこれをみてこのような大学生を送りたくないと感じるだろう。
この生活は主に三年生の前期から始まっており、感じたことは二つある。
まず、一つ目はこの生活は結構心地よい。
人と関わることがあまりないのでストレスもほとんどなく、生きていて苦痛が少ない。
二つ目は一つ目と矛盾するかもしれないのだが暇すぎて将来ニートにはなりたくないと思った。
上のルーティーンを全て行っても時間が余る日は多々あり毎日時間が死ぬほど有り余りとても暇である。
毎日やらなければならないこともないのに時間を潰すことが出来、社会の圧力に耐えることの出来るニートに尊敬の念すら覚えてしまった。
以上が私の抱いた感想である。
何かおすすめの暇つぶし方法があればぜひ教えて欲しい。
コンビニ人間書評
皆さんはこの世界を生きづらいと感じたことはないだろうか。
私には多々ある。
具体的に言うときりがないので二つ今日はエピソードを紹介したいと思う。
まず一つ目は飲み会のときに恋愛の話になることだ。
正直私は人の恋愛の話に興味が一ミリもないし、私自身恋人がいない歴=年齢なので恋愛において話すことは何もない。
なのにバイト先などで飲み会になったときにおいて大抵恋愛の話になる。
興味のない話をされるのもつらいし、こちらに話を振られても話すことはなく大抵は微妙な空気になる。
そんなときに私はこの世界は私にとって生きづらいものだと感じる。
私が飲み会で話したいお題と言えば「頭のいい人間とはどのような人間だ」などの抽象的な話をどちらかと言えばしたい(そんな話を飲み会でするとドン引きされること間違いなしだからその話を飲み会でしたことはもちろんない)。
二つ目はバイト先の陽キャと話している時のエピソードである。
その時も恋愛について話していた(陽キャは恋愛についてしか話すことがないのだろうか?)。
陽キャが「彼女とか欲しいと思わないの?」と私にたずねてきた。
私は「日によりますね(その理由についてはいつの日か述べるかもしてない)」というと陽キャは「それは彼女ができたことがないだろ」とあざけるような口調で言ってきた。
よく考えてみるとこれは「彼女いるやつ(いたことがあるやつ)」が正義というような押し付けではないだろうか。
この言葉の言外の意味として「彼女がいたことがない君には俺たちの気持ちなんてわからないだろ」というものが含まれている。
これは非常に上から目線物言いであり、かつ、彼女がいるやつが正義というような価値観の押し付けが含まれており、西欧の植民地主義を彷彿とさせるだろう。
↑のセリフを反論として言うことも出来るのだがそれを言ったところで負け犬の遠吠えに聞こえるのでやめた(それは例えるならfラン大学の学生が学歴なんて関係ないというようなものだ)。
これ以外にも私が生きづらいと感じたエピソードは多々あるのだが、私と同じように生きづらいと感じる人にとってこのコンビニ人間という小説は非常におすすめである。
コンビニ人間のあらすじだが主人公は大学を出てからずっとコンビニに勤め、フリーター生活を送っている。
そんな中で世間は彼女に「普通」を押し付けてくるというような内容の物語である。
少なくとも日本においては「普通」という価値観を人々は押し付けてきており、それから外れた人物を異端者として扱う傾向にあるだろう。
コンビニ人間においてもその傾向は変わっておらず、主人公の周りの人間は彼女に「普通」を押し付けてくる。
コンビニ人間においては「普通」から外れた人物にスポットライトを当てており、自分も「普通」から外れていると考える人物、この世の中が生きづらいと考えている人物には非常に考えさせられる内容になっている。
読みやすいので是非それに当てはまる人たちに読んで欲しい(陽キャは読まないで下さい)。
触れたことのない作品の感想文を書く方法
皆さんは学校の課題で映画や本の感想文が出されることはないだろうか。
私はわりとある。
いちいち課題のために映画を見たり本を読んだりするのは非常に面倒である。
なので今回は触れたことのない作品の感想文を書く方法を紹介する。
私は非常に真面目な学生なので読書感想文の課題が出たらちゃんと本を読むし、映画の感想を書くときはちゃんと映画を視聴する。
なのでタイトルにあるような不正行為を行ったことはない。
あくまでこの話は僕の友人S君から聞いた話であり、先生から不正がばれても私は責任は負わない。
では今からその方法を実際に紹介する。
まず最初にその作品の時代背景や作者などの周辺情報をWikipediaなどのサイトで調べておく。
そうすることで文字数を埋めることが出来るし、頓珍漢なことをいう可能性が下がる。
その次にインターネットでその作品の感想文を調べ複数読んでおく。
現代では非常に便利なインターネットというツールがあり、それを用いることで赤の他人の感想文が個人ブログや映画評価サイト、本評価サイト、アマゾンなど無数にあり一瞬でアクセスできる。
また課題で出される作品というものは有名作品であることが多く、感想文に困ることは少ないだろう。
そして、ここは細かいテクニックなのだがその作品を実際に触れることまでしないとしても手元に準備しておくことは大事である。
理由はあとで述べる。
では次は実際に書く段階にうつる。
書く段階において大事なのは他者の感想文を読んだ直後に文を書かないこと、そして他者の感想文を読みながら書かないこと、コピペを絶対にしないことである。
これは自分の言葉で感想文を書けということである。
これはばれるリスクを減らすために重要である。
他者の感想文を読んだ直後に文を書いてみると他者の言葉に自分の言葉が引っ張られ普段の文章から逸脱してしまい、ばれるリスクが生じる。
感想文を見ながら書かないことも同じ理由で大事である。
そしてコピペなどはばれるリスクがあるので一番のやってはいけない。
他者の言葉→自分の脳内→自分の言葉
上記のプロセスを経ることによって感想文は自分の言葉となる。
そしてそのためには読んだあとに自分の言葉に変換できるくらいの時間を空けよう。
その時間を取ったあとは実際に他者の感想文を感想文の長さに見あうくらいの文量をいろいろな感想文から取ってきて書いたら完成である。
感想の内容は一緒かもしれないが自分の言葉で書いているためばれる可能性はほぼ0パーセントである。
そもそも作品に対する感想なんて似たりよったりになるはずだ。
最後に感想文を確認してみよう。
感想文において抽象的な部分は大丈夫なのだが、具体的な部分について述べている場合、間違っているという可能性が存在してしまう。
もちろん先生から追及された場合も勘違いしてたと弁明すれば大丈夫な気もするが、念のために物語の具体的な部分は実際にその部分だけみて確認するとなお良い。
どこまで確認するかは本人のリスク管理に関わるし、確認しすぎると実際に作品を全て見たほうが良かったという本末転倒の事態になってしまうので、ここでは言及しない。
以上が触れたことのない作品の感想文を書く方法である。
めちゃくちゃ課題がめんどくさくて時間がないときに使ってみるのはどうだろうか。
二度目の言及にはなるが私は自他ともに認める真面目な生徒でありそのような行為は一切行ったことがない。
またこの記事で不利益を被っても一切責任は取らないのでそこはよろしくお願いいたします。
ノルウェイの森の魅力
あなたは村上春樹の小説「ノルウェイの森」読んだことがあるだろうか。
「ノルウェイの森」とは村上春樹が書いたリアリズム小説である。
この「ノルウェイの森」の魅力について今日は語りたいと思う。
この小説にはたくさんの魅力があると思うがその一つとして謎が最後まで「分からない」ということがあるだろう。
この物語の謎を一つあげるとすると、この小説の最初のほうで主人公の高校時代の親友である「キズキ君」が自殺してしまう。
そして、その理由は物語の最後まで明かされない。そんな感じでノルウェイの森には最後まで明かされないような謎が多くある。
謎が分からないとなぜ魅力的なのだろうか。理由は個人的には二つある。
まず一つ目の理由として、謎が分からないということは物語が終わった後もずっと考察することが出来るからだ。
自分は何かを考察することが好きであり、謎が謎のまま残っているともやもやするという意見もあるかもしれないが、私は逆に謎が残っていることで物語の余韻が私の中に残りやすいと考える。
謎が全て解明されている作品だと物語を見終わったあとに物語の世界から離れやすくなるだろう。
二つ目の理由は謎が解明されてないほうが「リアル」であるからである。
よく考えてみると世の中にはたくさんの謎があるが理由がよく分からないことのほうが多いのではないだろうか。
例えば自分が高校一年生のときに寺に修行に行くという理由で高校を辞めた友達がいる。その友達とは比較的仲が良く結構話していたのだが寺に修行に行く理由を聞いてもよく理解が出来なかった。
そして高校をやめたあと彼とは連絡がつかなくなった。
おそらく彼は病んでいたのだろうが表面上は病んでいる感じではなかった。
自分は理由が現在になっても分からないし、おそらく一生謎が解明されることはないだろう。
もしかしたら彼にもわかってないのかもしれない。
なぜなら人間の意志決定なんて無意識も大きく作用しているしそれまで生きてきた環境や社会構造も関係しており、本人の見えない要素が多いと私は考えるからだ(構造主義的な考えかたである)。
ここまでくれば自由意志の存在も疑わしくなってくるのだがその話をすると長くなるので別の機会で考えたい。
もちろん行動の理由を考察することは出来るのだが、いつまでたっても考察は考察であり、理由として確定しえない。
このように他人の行動の理由なんて少なくとも主観的な目線で考えたらわからないことが多いのだ。
ノルウェイの森においての謎も考察することは可能なのだが、謎は依然として謎であり多くは語られない。
ノルウェイの森はリアリズム小説でありそのように謎が最後まで「分からない」点が私たちの現実に非常に近いと感じ、そこが魅力的だと感じた。
以上の二つの点が理由である。
偉そうに長々と書いたがノルウェイの森の以外の村上春樹の小説を読んだことはない(エッセイはある)。
なぜならラストシーンでドン引きしたからである。
ラストシーンが気になる方やこのブログを見て気になった方はぜひ読んでみて下さい。
タイタニックに対する不満点。
こんにちは。
皆さんはタイタニックという映画を見たことがあるだろうか。
この映画は大変素晴らしいので見てない人は是非見てほしい。しかしそのような素晴らしい映画でも1つだけ心に引っかかる点が存在する。
それが何か今回述べたいと思う。ネタバレになるのでこの映画を見たことがある人だけこの記事の続きを見てほしい。
(以下ネタバレ注意)
タイタニックの終わりかたはこうだ。
船が沈没して小さな木の板?にカップルがしがみつくのだが1人分しか上に乗れず男が女に譲って結局男が水の中で凍死して女だけが生き残るという感動的なものだ。この終わり方に映画を観ている人たちは感動しただろう。(もちろん私も感動した)
しかし、よく考えて見るとこの結末は防げたのである。
タイタニックの途中でヒロインだけ救命ボートに乗せられるシーンがある。そこでヒロインは一緒じゃないと嫌だといって救命ボートに乗るのを拒否する。
一般的にみてこのシーンは感動的である。
だがちょっと待ってほしい。
一旦合理的に考えてみる。
よくよく考えるとヒロインだけでもその時いかだに乗ったほうがお互いのためではなかったのか。
なぜならあとあとどちらか1人が足手まといになるかもしれないし、1人しか助からない状況下にまた置かれるかもしれないからだ。その決断を取っていたほうが2人の生存率は上がるだろう。しかもその時離れたからといって永遠の別れになるとは限らない。
結果論だが、もしヒロインがあのとき1人で救命ボートに乗っていたらレオナルド・ディカプリオは木の板に乗れていて凍死にならずに助かっていた。
つまりあの決断は合理的ではなかったと言わざるを得ない。