人生でしてはいけないこと
ときどき5chなどで「経験上、ガチでやめとけってこと」などのスレがたっていることを見かける。
そしてそれはよく哲学ニュースnwkなどのまとめサイトでまとめられていることを見かける。
暇なときにふと人生でしてはいけないことというのを考えてみた。
そして考えた結果をここで紹介したいと思う。
私が考えるに人生においてしてはいけないことは自分の可能性を狭めることだと考える。
人生において人の気持ちほど信用できないものはない。
なぜなら人の気持ちというものは大変移り変わりやすいものである。
例えば、春休み期間に一日一時間勉強すると春休みが始まる前に固く誓っても、春休みが始まったらだらけてしまい全く勉強できなかったなどの経験が皆さんにもあるのではないだろうか。
その他の例をあげると友達と遊ぶ約束をして、約束をしたときは楽しみだったが、いざ遊ぶ直前になるとめんどくさくなるということなどである。
このように人間の気持ちは非常に移り変わりやすく信用できない。
それは人間である以上は仕方がないことである。
なので私は気持ちが変わっても対処できるようにすることが大事だと考える。
そしてその対処の一例が自分の可能性を狭めないということである。
様々な可能性を持っていると、後で気持ちが変わったときに対処しやすいからである。
ここで具体的な例に移るが、自分の可能性を一瞬で狭めてしまう行為は二つあると考える。
まず一つ目は犯罪である。
犯罪は行為によっては一瞬でできるが、一度犯罪歴がつくとまともな職業につくことが不可能になる。
いろいろな可能性をなくしてしまう行為である(もちろん正確に言えば犯罪をしてもそれが露呈しなければ問題はない)。
二つ目は治らない重大な怪我を負うことである。
あえて説明するまでもないが人間は怪我を負うことで様々な制約がかかってしまう。
私の考えではこの二つが主に気をつけるべきことかなと感じた。
なのでこの二つをしないように人生を送っていきたい。
韓国旅行記前編 韓国国境展望台に行く
コロナが世界中で猛威を振るう直前、私は友人のY君と韓国を旅行した。
今回はその旅行記を書きたいと思う。
人生何があるか分からないからこの海外旅行が人生最後になるのかもしれないと考えるとなかなか感慨深いものがある。
今回はソウルを旅行し交通手段は飛行機を利用した。
私は旅行するときに宿の予約は空港で行う。
その理由としては直前にならないと予約するやる気が起きないし、空港では暇が多いので良い暇つぶし方法になるからだ。
そして宿は明洞にある安宿にすることにした。
値段は安かったが(確か一泊2000円くらいだった)、ドミトリーではなかったし清潔だったし朝食付きでとても良いホステルだった。
そこそこ宿を予約している経験上booking.comの口コミなどでよい宿の判別がつくことが出来るようになった気がする(まあそれは難しいことではないが)。
↑一日目に食べた料理
そこそこ美味しかったが、箸がどこにあるのかわからずにめちゃくちゃキョドってたら近くの日本人が箸は机の横についてある引き出しにあることを教えてくれた。
ありがたい。
そういう大事なことはあらかじめ言っておくべきではなかろうか。あやうくストローで食べそうになった。
韓国料理で思ったことは漬物の種類がたくさんあっておいしいなと感じた。
その日はその後寝て翌朝ホステルで朝食を食べ、韓国と北朝鮮の国境にある展望台に行くことにした。
余談であるがホステルの朝食をとるスペースにはカップルがたくさんいて、カップルで海外にくる人を許さない市民の会会長の私としては看過できない事態だった。
今度橋本さんと意見交換会を行うつもりである。(これも余談であるがこのボケ?を一緒に来ている友人に言うとスルーされた。何を言っているのかわからなかったのだろう)
その展望台まではバスで行くのだが普通にバスを間違えてしまった。
googleマップを見ると展望台までは5kmとなっている。
ふつうの人間であればタクシーに乗っていくのだろうが私たち(私だけかもしれないが)は血迷っており歩いていくことにした。
歩いていると犬が放し飼いになっていて、途中野良犬かよくわからない犬が吠えていて死ぬほど怖くて走って逃げた。
また2月のソウルは死ぬほど寒かった(確かその時は0度くらいだったと記憶している)。
途中道に迷ったりして人によってはつらい道中かもしれない。
しかし、友人とビートルズの音楽を流しつつ、韓国の美しい景色を見ながら歩いたのは結構いい思い出になった。
いや結構どころか死ぬまで忘れない思い出になるだろう。
旅のトラブルは怪我や盗難以外はいい思い出なることが多いのではないだろうか。
トラブルがいい思い出になることが旅の良い点である。
↑実際に歩いた道から見た景色。旅行ではこういう何気ない景色も素晴らしく感じる。そこが旅の好きな点の一つである。
そんなこんなでバスをおりてから二時間歩いたのち、やっと展望台に着いた(実はgoogle mapの5キロは直線を意味していた。実際には10キロくらい歩いた気がする)。
展望台では北朝鮮がよく見え、北朝鮮の農作業をしている人が見えた(ちなみにその展望台で無料で望遠鏡が使える)。
北朝鮮が存在することは今まで何度も聞いてきたことであるが、実際に見てみると新鮮である。
というか見たことがない存在をどうして存在していると確信することが出来るだろうか。
いつか北朝鮮にツアーで行ってみたい。
↑北朝鮮側の景色 川の対岸が北朝鮮である。見るからに貧困そうである。
↑一方こちらが韓国側。奥にはビル群が見え近代的である。
後編へ続く。
後編ではポシンタンを探す旅にでる。
カンボジアで学歴マウントをとられた話
今回はタイトルにある通りカンボジアで学歴マウントを取られた話をする。
大学二年生の夏休みに私は東南アジアを旅行しており、ホーチミンからプノンペンへバスで向かっていた。
バスの値段は大体800円くらいだった。
東南アジアということもあり、かなり安い。
バスは午後一時にホーチミンを出発し、無事に国境を越え、カンボジアに入った。
余談だがカンボジアに入るとかなり道路状況が悪く、そこからカンボジアの経済状態が分かる。
↑休憩したときに撮った写真。みて分かる通り道がガタガタだった。あと道にゴミが落ちてて汚い。
途中の食事が出来るところでバスは止まった。
↑店内の様子。衛生的によくなさそうだったので食事はしなかった。奥にあるのが乗ったバス。
余談だがカンボジアで使われている貨幣はドルである。そこからもカンボジアの国力を察することが出来る。
店内でカンボジアの風景を静かに眺めていると日本人が話しかけてきた。
そこで雑談をしていると
「どこの大学に通っているのか」
という質問をされた。
自分が答えた後になんとなく同じ質問をぶつけると相手は
「京都大学です」
と勝ち誇った顔でかつ早口で勝利宣言をしてきた。
彼は質問を聞き返されることを想定して質問していたのだろう。
京都大学に通っている人物ということだけあったなかなかの頭脳である。
自分は地方の国立大学に通っており‘’どこの‘’大学に通っているのか?という質問に大学名まで答えるのはおかしくないだろう。
しかし、京都にはたくさんの大学があり、どこの大学に通っているのかという質問に答えには「京都」が適切ではないのだろうか。
この敗北を防ぐ方法は何があるのだろうか。
まず一つ目は自分が高い偏差値の大学に行くことである。しかし、この方法は大学三年生である私にとって現実的ではない。
二つ目の方法は聞き返さないことである。初対面の人間に学歴を聞いてくる人間は大抵自分の学歴に自信を持っている。
私の持っている学歴で勝負を挑んだ場合、2割の確率で勝利、5割の確率で引き分け、3割の確率で敗北するだろう(偏見かもしれないが海外旅行に来ている日本人は大卒、そして高学歴が多い気がする)。
つまりそもそも勝てない勝負をしないことが大事ということになる。
今度(いつの日になるかは分からないが)海外旅行する際はこの点に注意したいと思った。
余談その1
ちなみにバスの隣に座っていたドイツ人女性と雑談して分かったことだが、彼女も京都大学に留学経験があるらしい(彼女は外国人は京都大学に留学するのは難しくないと謙遜していた)。
世の中には高学歴の人間がたくさんいる。
余談その2
カンボジアのバスは色味がおかしい。
風○の店内のような色味をしている。
カンボジア人はこの色をどう思っているのだろうか。
人生で後悔しない方法
皆さんは人生で後悔があるだろうか。
ちなみに私は人生で後悔したことはない。
今回はそんな私が人生で後悔しない方法(考え方)を述べたいと思う。
最初に「後悔」という言葉の意味について考えたい。
後悔とは「してしまった事について、後から悔やむこと。」という意味である。
今日の技術において、時間を巻き戻すことを人間は出来ないから何か行動をした場合それを取り消すことは出来ない。
つまり全ての人間の行動は「point of no return」であると言えるだろう。
後悔しないための大原則は何かを行動する前によく考えることだ。
行動する前に考える癖をつけておくと何かの大失態を犯すことはないだろう。
これは感情的になるなという意味でなく、感情的になる時でもこの行動をしても大丈夫かという論理的な判断を下す自分も脳内に入れておくべきという意味だ。
例えば誰かに怒りそうになったときにはこいつに今怒っても大丈夫かを脳内で考え怒る癖をつけるようにしよう(怒っても大丈夫な状況とは、例えばこいつとは二度と関わることがない場合やこいつが自分に対して影響力を持たない場合などが該当する)。
基本的にこの行動する前によく考えるという原則を守れば後悔することはないだろう。
これに対しての反論として「行動する前によく考えても(後から見て)間違った選択をしてしまいそれに後悔が生じるのではないか」というものがあるのかもしれない。
何かを選択するときに自分の選択肢が間違っているというリスクは常に生じるものだ。
そもそも「選択」という言葉を使っている以上、その選択肢が自分にとって正しいかなんてわかるはずがない。
もし分かるのであれば「選択」という言葉を取る使う前にノータイムで行動するだろう。
何かを選ぶ場合その選択肢に関する情報や経験でどの行動をとるか判断するものだがあなたが人間である以上常に正しい行動をとるというのは不可能である。
例えばあなたは明日大学の必修科目のテストがあるが、友達から遊びに誘われていて行くか迷っているとする。
ここで考える要素となる選択の際に参考になる情報だが、ざっと考えただけで
・遊びに行って楽しいか
・今しかできない遊びなのか
・テストの日時
・自分が現在どれほどテストの内容を理解しているか
・テストを失敗した場合救済措置はあるか
・テストの難易度
などがある。
これまでの傾向や経験である程度は予測がつくだろうが、結局テストを出すのは人間なので突然形式が変更して、難易度が変わるなどの可能性などが否めない。
つまり何かを選択し行動する時点で全ての情報を得ることなんて不可能だし、経験がいつもあてになるとも限らない。
また未来で突発的なことが起き自分の選択が結果的に間違っていたということもありうる。
出来ることと言えばその選択肢に関する情報を出来る限り集めそのとき自分が正しいと思う選択肢を選びだけである。
自分がそのとき正しいと思う選択肢を選んでいるのであればあとから間違ってたとわかっても後悔することはないだろう。
全ての情報がわからない、未来の出来事は誰にも分からない、この二点の理由であなたが結果的に間違った選択をしてしまっても仕方がない。
何度もいうが人間である以上どんなに考えても常に正しい選択をすることは不可能である。
不可能なことに関して後悔という感情は生まれないだろう。
まとめると後悔しない方法は未来は分からないので現状で出来る限り情報集め、そのとき自分が正しいと信じる選択をするというものだ。
ここまで長々と書いたが私が言いたかったことは進撃の巨人のこのコマで分かりやすく述べられている(というかここまでの説明はこのコマの解説といっても過言ではない)。
未だに進撃の巨人という神漫画を読んでいない人はいないと思うがいたら至急読んでください。
ちなみに進撃の巨人にはこのようなセリフが何度も出てくる。
全てがどうでもいい
私は現在大学生をやっているのだが、大学生活を送っていて頻繁に思うことがひとつある。
それは「全てがどうでもいい」という感情だ。
今の生活においての不満はほとんどない。
自分はもしかしたら幸せのハードルが他の人よりも低いのか、恵まれすぎていて気付いていないのかもしれない。
寝るところがあり、毎日食べるものがあり、インターネットを毎日使える。
そのような生活環境で私は非常に満足している。
そしてその環境というのは日本にいる限り(今のところは)ほとんど誰しもが享受できるだろう。
先ほど述べた生活というのは最悪フリーターや生活保護を受給していても実現できる。
そのような状態であるがゆえに就活などもどうでも良いと思ってしまう。
大学の授業も死ぬほど退屈だし、最悪留年しても良いと思っている。
人生において夢ややりたいことがないわけではないのだがそれは多大な努力しなければ達成できないものではないのでそのことに対して頑張る気力も特に沸かない。
つまり向上心を完全に失ってしまっているのだ。
自分の人生を例えると味のしなくなったガムみたいなものだろうか。
こんなにも恵まれている日本社会で向上心を持つことが出来る人に対して私は不思議な気持ちになるし、尊敬の念も抱く。
ここまで読んでどのような印象を抱いただろうか。
このような考えで暗いなと思ったかもしれないがこの考えは一長一短あると考えている。
向上心が高い人間はエネルギッシュで魅力的である反面、高みを目指す過程で苦痛も多いのではないだろうか。
自分のような考え方だと高みを目指さないから、周り見てから無気力な暗い人間に映るかもしれないが、苦痛は人生において少なそうだ。
これは先ほどの話と関係ないのだが、最近は人に対する興味も以前よりも増して失ってきている。
これは非常に困ることで人と会話していても特に面白いと思えないからだ。(もちろん友達などは面白いと感じる人もいる)
ではなぜ大学に入学したり、授業に参加するのかという疑問を持つ人もいるかもしれない。
その理由は端的に言って暇だからである。
「全てがどうでも良い」といったが、どちらかと言えばいい企業に勤めたいしいい暮らしを送りたいという欲が自分にもある(あくまで「どちらかといえば」である)。
暇であるがゆえにどちらかと言えばという欲望のために時間を私は投資している(もし自分にものすごくやりたいことや好きなことがあれば絶対にそちらを優先するだろう)。
この感覚がうまく伝わるだろうか。
村上春樹風に言うならば
「それが僕のささやかな希望であった。でもどうしてもというほどのものではない。できたら、ということである。僕の希望というのは昔からだいたいその程度のものである。」
村上春樹「雨天炎天」新潮社、1991年、142ページ
ということだ。
もちろんこの考えは現段階のものであり、変わる可能性はある。
自分たちの周りを変人と認定する行為について
皆さんの周りには
「俺の友達変人しかいないわ~」
「俺のクラス変わった人しかいないわ~」
「俺の所属してる学部の人たち、濃いメンツだわ~」
などのセリフを発する人物はいないだろうか。
自分は上記のようなセリフを生まれてから何回も聞いてきた。
そのセリフに対しての返答はいつも
「確かにな!変なやつばっかりだよな!」と返すのだが
心のなかではひそかに
(いや別にそんなことはないだろ・・・)
と思っている。
その主張は個人的には間違っているのではないだろうかと感じる。
その理由を述べたい。
・そもそも普通の人は存在しない
そもそも「普通」の人なんて存在するのだろうか。
人間誰しも変な点を持っており「完全なる普通」の人間など存在しない。
人間として生まれてきた以上、必ず何かしらの個性や、自分独自の価値観、考え方はその人それぞれが持っているに違いない。
(そもそも「普通」という価値観自体時代や地域によって変異するので考えること自体が無意味ではないだろうか)。
そう考えると全ての人間は変人ということになり、彼らの主張である
「自分の周りは変人が多い」
は一見、正しいように思え
「そもそも普通のひとは存在しない」
という意見は彼らの主張を肯定する根拠になりえるのかもしれない。
しかし、彼らがこの言葉をいうときには必ずその背景に
「普通の人間がいて、それの反対の概念として変人がいる」
というものが存在している。
なぜならもし私が先ほど主張したように
「この世の全ての人間は変人である」・・・A
というのを前提として
「自分の周りは変人が多い」・・・B
と主張することはないからだ。
Aを前提としてBを主張することは当たり前のことであり、わざわざ当たり前のことを口に出して発言する人間はいないだろう。
つまり彼らが
「自分の周りは変人が多い」
というセリフを発するときに正確に言えば、主張自体は正しいのかもしれないが、前提条件は間違えているだろう。
・前提条件を間違えてしまう理由
ではなぜ人は前提条件を間違えてしまうのか。
それには二つ理由があると考える。
一つ目の理由としては関わったことのない人間や、関わりが薄い人間は普通の人に見えるからだ。
関わったことのない人間に対してその人の変わっているところを見つけるのは難しい。
その結果普通の人間が存在するように錯覚してしまうのではないだろうか。
逆に自分の周囲に存在する関わりが深い人物に対して変わった点を見つけるのは容易である。
例えば、その人の変わった行動や性格上のおかしな点を一つ見つけるだけでそのひとを変人認定できるだろう。
そうして自分の周囲の人は変わっているという錯覚が生まれるのではないだろうか。
二つ目の理由としては単純に自分たちが変わっていると思いたいからではないだろうか。
人間は大抵「普通」と呼ばれるよりも「変わっている」と思いたい生き物だろう。
「普通」という存在は生きやすそうではあるが、面白くないという印象があるからだ。
ということで自分たちの集団や周りを「変わっている」と自認するのではないだろうか。
ここまで偉そうに語っているが自分も
「あいつまじで変人だわ~」
などと言うことがよくあるのでこれらのセリフはこれからもぜひ皆さんに使ってもらいたい。
そもそも日常会話でここまで考える人物はいないと思うし、いたら気持ち悪いだろう。
大学は後期オンラインになるのか
今回は大学が後期オンラインになるか考察したいと思う。
結論から言うと私は大学は後期もオンラインになるのではないかと考えている。
理由は三つある。
まず一つ目の理由は感染者数が10月には前期全てをオンライン授業にすると決めたときよりも増えていると思うからである。
私が通っている大学が前期オンラインにすると決めたのは5月18日だが、仮にその一週間前に全部オンラインにすると決めたとする。
5月11日の新型コロナウイルス新規感染者数は日本全体で43人である。
4月6日から5月6日まで緊急事態宣言は出ており、緊急事態宣言が解除されてからは比較的落ち着いている。
そのような状態で大学はオンラインにするということを決めたわけである。
現在の状況はどうだろうか。
7月23日現在、日本国内では過去最高の981人のコロナ感染者が出た。
国内のコロナ感染者は緊急事態宣言解除後どんどん増えており、緊急事態宣言を行う前よりも増えている。
大学の後期が始まるのは大体10月からであり、その頃にはどうなっているのだろうか。
新型コロナウイルス新規感染者数を減らす方法として、ワクチンが完成するか緊急事態宣言をもう一度行うかの二つしかないことは明白である。
しかし、ワクチンが10月までに完成し、国民にいきわたるという事態は極めて想像しづらい。
そして緊急事態宣言をもう一度行うという可能性も極めて低いだろう。
緊急事態宣言をもう一度出すべきか否かという問題は極めて難しい問題と思うのでここでは論じないが、緊急事態宣言はよほどコロナ感染者が増えたときにしか出されないと予想する。
なぜなら一度目の緊急事態宣言で国の経済は大きなダメージを受けたし、緊急事態宣言によって出される休業要請は補償とセットになっていなければならない。
休業補償無しの休業要請は経営者にとって死刑宣告と同じであり、そのようなことを出来るわけがないからだ。
しかし、補償金を出すお金が政府にはないから緊急事態宣言を出すことも出来ず、このままずるずると今の流れを引きずっていくのではないだろうか。
また、再度緊急事態宣言を出すと経済に大きなダメージが来る。
以上の理由からよほど感染者数が増えない限りは緊急事態宣言をもう一度出すことはないのではないだろうか。
つまり政府は実質対策なしでこれからのシーズンを迎えるということだろう。
そうした場合10月にはコロナ感染者が今よりも増えていることは火を見るよりも明らかであり、5月11日あたりの感染者数でオンラインにすることを決めた大学が10月に対面授業を行うとは考えずらい。
二つ目の理由は10月以降に2020年夏と比べて新型コロナウイルスが猛威を振るうと予想出来るからである。
十月は冬への入り口であり新型コロナウイルスが夏よりももっと脅威になると多くの人々が予想している。
そんな中で大学はわざわざ対面授業というリスクを冒すだろうか。
三つめは大学の構造上の問題である。
大学で講義は広い講義室で行うことが多くクラスターが非常に発生しやすくなっている。
また、大学生は他の学生と比べて交友関係が広く(自分はそんなことはないが・・・)一人がかかると様々な人に移すリスクが高い。
大学という環境は教わる側は若者が多いが、教える側は年配の方々も多い。
対面授業を行うということは年配の大学職員に感染させるリスクを生じさせるということである。
大学生はパソコンを持っている率が高く、オンライン授業がやりやすいということもある。
このようなさまざまな大学の構造上の理由で対面授業は実施しづらいと考える。
以上の三つの理由で私は後期もオンライン授業が継続するのではないかと考える。
もしくは完全にオンラインではないとしても一部の授業が対面であとはオンラインなど、完全な対面授業が実施される可能性は低いと考える。
この予想は自分なりに論理的に考えたつもりだが読者のみなさんの目にはどう映っただろうか。
もしかしたらこの予想には後期もオンライン授業になって欲しい自分の願望が入り混じっているかもしれない。
そしてその結果、見落としている点やおかしな点もある可能性もある(ちなみに後期もオンライン授業になったら私は泣いて喜ぶだろう)。
なのでおかしいと思った点や何か重要な見落としている点があればぜひ教えて下さい。
あとこれはなんの専門家でもない大学生の予想なので話半分で聞いて下さい(私はWHOのテドロスのように有能な人物ではありません)。